ホルスの目


ホルスの目

その青年はぶっきらぼうに言った。「俺の眠そうな左目のまぶたを治してくれ。目玉はいいんだ、バッチリ見えてるからよ。」見るからにヤンキーなその青年は、先日、喧嘩して左目を殴られ、その後まぶたが下がったと言う。しかし下眼瞼に斜めに走る古い傷痕は明らかに手術痕のそれだし、レントゲン所見と合わせると、かなり昔に眼窩部を骨折し、その後遺症と思われた。それに、虚空に開いたまま視線の定まらないその目は、視力を宿しているようには思えなかった。

私は「本当のことを言ってくれないと治せないよ。私は神様じゃないし、手術は魔法じゃないんだ。」と言うと、彼は堰を切ったように話しだした。「チェッ、まいったな。前の医者では、見えない目のまぶたを開けるのは意味がないと言われて断られたんだ。でも、俺にとっては意味があるんだよ。」「赤ん坊のころ、母さんが俺を抱っこしながら転んで、俺は顔から落ちて左目がこうなったんだと。」「大学病院まで行って、手術を受けたけど、目は治らなかった。」「母さん、あたしの所為だって泣いて謝って…それ以来、俺の眠そうな左目を見るたびに、思い出したように悲しい顔をするんだ。」「俺は何も困っていないんだ。左目が見えなくたって、俺は何だってできるんだぜ。」「そりゃ、俺の目を馬鹿にするやつは、ボッコボコにしてきたけどよ。」「俺は、ただ、母さんにもう一度、笑って欲しいんだ。」「だから、俺のまぶたがしっかり開くだけでいいんだ。」「頼む、そうしてくれ。」…

充分に、意味がある、と思った。

…彼の眼瞼下垂は、通常と違って眼球陥凹が原因なので、特殊な手法を要する難手術だったが、「しっかり開くようにする」という彼の依頼は果たすことができたつもりだ。「先生、ありがとう。母さんに笑顔が戻った。」という青年の言葉。それ以上は望むべくもなかった。

後年、思うことあり、大学病院に行って古いカルテを探ってみた。そこには件の青年が幼少期に眼窩底骨折を受傷し、Apex症候群として、若き日の、とある金匙の形成外科医による緊急手術を受けていた。そこには「無念。できる限りのことをしたが、この子の目を救えなかった。」との走り書きを見つけた。特殊な手法を開発し、私に教えてくれた医師だった。私は、なんだか胸が熱くなった。

先生、大丈夫だ。先生の思いは通じたよ。彼の目は“見える”。彼の目は、全てを見通すホルスの目。(maha28510101002538)


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