
大学の6年生になった春、卒業準備委員会で成績優秀者に何か記念品を贈ろうという話が持ち上がったことがありました。某大学では「金時計」「銀時計」などを贈るという噂があったので、信大医学部では「金匙」「銀匙」ではどうだろうということになりました。手に負えない病気を診たときに「医者が匙を投げる」という言葉がありますが、さすがに首席の金匙なら、そうはやすやすと匙を投げないという意味も込められていて、なかなか洒落たアイデアでした。でも、卒試や国試に追いまくられ、そんな話はいつのまにか立ち消えになりました。私の成績はどう見積もってもその他大勢の「木匙」レベルでしたので、気楽に匙を投げまくれるなと独り言ちていました。喜んでよいのか悲しんでよいのか。
冗談はさておき、人間にできることには限界があり、そこから先は神様の領域という思いが、いつからか私にはありました。例えば、小耳症という生まれつき耳が完全に形成されない疾患の人がいて、優秀な形成外科医が手術で精魂込めて耳を形成して、周囲の専門家達がこぞって称賛するすばらしい出来栄えなのに、どこか作り物感は否めず、当の患者さん自身は不満げなのです。専門家達がイメージする耳が人間の限界で、患者さんのイメージが神の領域の耳なのでしょう。たとえ金匙の形成外科医が努力して限界まで挑戦しても、患者さんを満足させることはできない。人間にできることの限界に挑戦し続けていくことは(とても大切なことだとは思うのだけど)そこは神様の領域として、私は立ち入らないことにしたのです。できないことをあたかもできるように期待を抱かせて治療してはならないと思うのです。なんてカッコいいことを言って、木匙の私がホイホイ匙を投げることの言い訳かもしれません。(maha28510101002538)